四、珈琲の立て方


 飲用珈琲の価値は、いうまでもなくそれが立てられる時に決まります。如何に粒選りの名品を揃えても、その立て方が誤っていれば、普通の品質のもので立派に立てられたものの足許にも及ばなくなります。
 それは珈琲が単にその持つ要素を、水分中に溶解するだけのものではなく、熟練と親切を以って、人間の手によってつくられるものだからです。そしてその親切材料のそれぞれの特質をよく活かすこと以外に珈琲を立てる秘訣はありません。
 このような基盤の上に、味に寄せた人間の夢がまた描かれるのです。そのことは疚しい考えによって変形せしめることではなく、自然のそれながらの姿の中に自然のそれながらの心に写る、一つの真実を見出すことであり、またそれを描くことです。
 それは殊更にいえば、そういうことになるのですが、要は理屈ではなく、その事に当たって、恥じない心があれば出来ることです。よく珈琲は茶に比較されますが、珈琲は決して超脱した気分を要するものではなく、もっとのんびりとした気持ちの美しささえあれば、技巧だけの不親切さに勝るものです。そのどこにも覇道的要素を持たない人間的な実質は、それこそ豊かな人間のよろこびとなるものです。それは決して完成の孤城に閉じていず、感動にも激変し易い性格をもって人間とともに歩む、自然の生命を持つものです。そうしてそういう謙虚な気持ちから、珈琲は現在、新しく見出され始めています。

 珈琲の立て方といえば、原則的には三つしかありません。その一つは冷浸であって、前に掲げた代表的な珈琲の紹介中にある、ダッチコーヒーの方法もその一例です。
 それによれば、焙煎され、所要の大きさに挽かれた珈琲は、特殊な装置をもつポット上部に容れられ、数時間かかって、点滴して冷水中に浸出されるのです。それと類似していますが冷水中に数時間浸漬し、珈琲が浸出を終わったところで浸液を漉し取ることもあります。
 水分を滴下または流下して珈琲浸液を得る方法と、水分中に浸漬して浸出せしめる他の方法という点から見れば、珈琲の浸出は二つの方法が基本をなすとも思われますが、熱湯による場合は時間的に非常に早く手段を終わらなければならないために、別な方法としてこれを見れば、
珈琲の立て方は、冷浸法と滴下または流下法と浸漬法の三つとなります。
 冷浸法は多くどこの産地ででも行われる方法であって、それはとても消費地においては経済的に行い得ない程、多量の材料を要します。また気温等の条件の差によって、主として温暖帯に属する消費地の比較的低い気温では、浸出時間等が違い、恐らく原産地で絶賛されている程の良い液体を得ることが出来るかどうかわかりません。
 ただこのような冷浸によって得られた液体は、熱湯によって得られたものと比較して、その香気も味も挽かれたままの珈琲の香や味に極めて近いのです。しかしそのことは何も熱湯によったものの価値を低めることではなく、高温に依って浸出されたものには、高温によるすぐれた香気と味わいを持つので、原産地においても珈琲は冷浸されることよりも、温浸されることのほうが遥かに多いのです。

 浸漬法。
 焙煎し、磨砕した、珈琲浸出に供される珈琲を素材珈琲といい、出来上がった珈琲を飲用珈琲と以下いいます。
 浸漬法による一つの立て方では、所要量の水、例えば一杯分85ccの出来上がりに対しては、役100ccの水を煮て、沸騰し始めたところに、定量の素材珈琲約三匁(大スプーン一杯)を入れ、一時鎮まった湯が約一分間後、再度沸騰し始めるような状態になったところで、珈琲沸しの下の火を小さくするか、少し遠ざけるかして2,3分間を経過すれば、素材珈琲コップに直接濾過するか、あるいは冷まさないように用意された他のポットに受けて、直ちに供します。
 こういう方法で、約3,4分間に立てられる場合には最初沸点に達して注がれた湯の温度は一度摂氏80度付近に低下し、再度92,3度なり、その後yy下りながら2,3分に浸出を止めるのですが、温度が高過ぎたり、比較的に高いその状態の温度中に、稍々長く素材珈琲が浸漬していると、好ましからぬ味を出したり、浸液の性格を変化させたりするばかりでなくその芳香を失います。
 飲用珈琲は誤りなく立てられていれば必ず澄明な琥珀色の液となります。浸液が透明度を失ったり混濁を生ずるのは、致命的な精度の損傷を現物の中に示していることであって、それは必ずしも珈琲の微分末が混入したばかりでなく、液体そのものが精良ではなくなっていることが多いのです。
 その液体は冷却されても、澄明でなくてはならないのであって、比較的高い温度で澄明に見えても、常温程度になった場合、曇りを生ずる液体は微分末が混入していることの方が遥かにましです。それは粉とともに飲むトルココーヒーがその立て方さえ誤りがなければ、特殊な飲み方ではあっても、やはり勝れた美味な飲用珈琲の一つであることを見ればわかることです。
 熱湯に材料を投入しないで、水煮から始めて比較的徐々に温度を高めて浸液を得る場合もあります。このような場合には、浸出にかけられる時間の差によって、その時に選ばれる最高温度を何度にするかは一定しませんが、温浸の適温83度から93度の間に約三分の時間をかけておけば、その浸液は良質の飲用珈琲となります。しかしこの方法は水温と浸出時間との関係に、条件の一致点を見出すのがやさしいことではありません。また材料の珈琲は、比較的に温度に対して変化しない性質を持った種実を選ばなければ、その結果は狂い易いものとなります。

 気圧を利用して二股に組み合わせた容器に、温湯を上下させて浸出を行うコーヒーサイホンは、合理的に機械化した浸漬法の一種だと思って差しつかえありません。しかし機械的に行う疎の方法は、現在の段階では比較的簡単に平均した品質のものが一見面白く採れるだけで、まだ推奨し得る味わいは得難いのです。
 それはサイホンの多くがガラス器具であるため、非常に破損し易く、ともすれば珈琲の浸液は二の次に考えられたりし勝ちな点もあります。またその取扱の上から、下の容器に最初入れられた湯は、火の上ですぐ水蒸気を発するため、水温が必要温度に上昇しない中に、湯は接続の管を押し上げられて、上部の素材珈琲を漬し、浸出に使われている水温が、果たして必要温度かどうか考慮されないで珈琲がたてられる場合が往々あり得るのです。
 またその操作が一度で浸出を終わらないで、二度三度とくりかえして行われることは、珈琲の尊重の点から見て良策とはいい得ません。しかしこの方法はアメリカでは、家庭用品としても相当用いられ、日本においては戦後、珈琲店の一種の流行となっています。

 滴下または流下法
 
滴下と流下とは自ずから多少の差はあります。それは目的が異なる場合に、それぞれの方法が採られるのです。またそれはたてる量の差によっても、そのいずれかの手法によらねばならないのです。
 この方法は古来採られている根本の方式のようにも思われます。あるいは原始的だともいえるこの簡素な立て方は、所定の珈琲漉し袋に素材珈琲を入れ、上から沸騰した湯を注ぐのです。誰しも知っているこの普及した方法は、さすがに技術的にもその要領を最も修得しやすいもので、漉し袋の用意さえあれば一杯でも数十杯でも、づぐどこででも造ることが出来ます。
そしてその価値は極めて良いものです。
 例えば三人分の珈琲をたてるとします。珈琲漉し袋に大スプーン三杯の珈琲を入れ、ポットで沸騰させた新しい湯を袋の中にある素材珈琲全部に、均一に浸み渡るようにかけます。この際誤ったかけ方をすると、湯は恰も膜を張ったように乾燥した珈琲の一部を包んで、そこだけ通らなくなりますから、最初に素材珈琲全部がよく浸されるようにしなくてはならないのです。これはまた同様条件の下に、すぐ珈琲が浸出し始めていることをも意味するのです。
 沸騰した湯は素材にふれると。素材中の水温は最初摂氏80度付近に下がりますが、その水温は次々に注がれるものによって、珈琲の浸出しやすい温度に上昇します。湯が注ぎ始めれれてから約一分間の、その時間中を最もよく注意でぃ、三杯分ならその容量の浸液が出来上がるまで前後三分から五分間に湯がかけ終わっておれば、その浸液は良好な飲用珈琲となっています。
 高温度では、珈琲は極めて短い時間に、充分にその精度を浸出します。このことは、温液に対して非常に敏感であるということを示しているのです。従って珈琲の質の温度に対する変化の現し方を智得していることは、得意の珈琲液を造ることが出来るということにもなるのであって、従って人の性格や感情の変化すらもが、期せずして
一杯の珈琲の中に反映することともなるのであります。それは人の心のあり方や性格によって、極めて微細な温度変化が生ずるからであって、珈琲はその微細な温度変化に応じて、その特質の変化のし方を変えているのです。
 珈琲はその浸出の最初、つまり浸出し始めるまでに与えられた条件によって、結果の浸液の性格が決定されるのです。最初を誤っていたら、あとたて終わるまでの2,3分間に、いかに細心の注意を払っても決してその浸液は良好なものとはならないことは、経験者なら誰でもよく知っていることです。大量を採る場合には、必然的に稍々時間が長くかかります。従ってその場合には、水温の調節に最も注意が払われなければなりません。前にもしばしば紹介してある珈琲の立て方の要領の中で、誰もが温度と時間とのことを最も多く懸念しているということは、もともと珈琲の取扱者が、その点に一番悩んでいるからであります。
 ただ盲目的に、概念的に、従ったり従わなかったりしないで、温湯中における珈琲の質の変化を注意して、良い取扱の方法を発見することは、将来とも限りない興味のあることです。
 珈琲はいままですら、すべての人工の他の嗜好飲料と比べて、決して劣らぬというよりも、むしろ優れた自然の飲物ですが、決してまだ完成された飲物ではありません。それはその極めて微細な性質が、人間の優れた精神や感覚と調和し、一致したものとなり得るものだからです。たとえば前に掲げた代表的な珈琲の紹介中にある、クレオールコーヒーとウインナコーヒーの如きは、それぞれの結果はいずれも濃厚でありながら、珈琲質の変化の相違から、その持ち味の特徴は必ず別種のものとなっているはずです。

 フランス風の珈琲の主潮をなすものは、この滴下または流下の方法によっていて、器具は非常によく考えられたコーヒーポットができています。それはその後考案されたパーコレーターやサイホンと比較して、一見何の奇もない単純なものであって、上下二段に分かれたポットの上部には、その中央のまるく稍々上に突出した部分に、三つか四つの小孔があり、その上に素材珈琲を容れる、上下に小孔の空いた鈑のある濾過器を持つ容器があって、熱湯を一度にその上の容器に注ぎこみ、すぐ空気の流通の出来る一滴の小孔の空いた蓋をして、そのまま放置するのです。
 湯は珈琲押えの小孔を平均して通り、そのまま素材の中を平均した流れ方をして、浸出液は濾過器の最下部にある三つの小孔を通って、下部のポットまたはガラスコップに滴下して蓄えられます。熱湯が注がれてから浸出が完了するまで大体三分か四分間です。これによってただそれだけで充分玩味出来る、飲用珈琲が得られます。ただこの場合、浸液は相当ぬるくなっているので、そのため不満を持つ者もあります。それは人それぞれの好みであって、そのためには改めて温めなければなりませんが、ダブルポット等によって温度の低下が防がれれば、その難はすくうことが出来ます。
 パーコレーターやコーヒーアーンはこの滴下または流下の応用として出来た立て器です。
 しかし浸出し始めた珈琲液が、しばしばくりかえして素材珈琲に注がれることは、それらの立て器が良質の珈琲浸液得ることよりも、いつでも平均した浸液を、簡便に得ることを目的として採られる方法です。コーヒーアーンはたてる者の親切な注意によって、その精巧な機能を活用し、正しい浸出を行い得れば、無論普通品として比較的良好なものを、採りえるのです。
 
珈琲濾過の布袋
 大量でも少量でも布袋で珈琲の浸出液を漉すことは、一番無難な方法です。材料にはあまり緻密でもなく、またあまり粗雑でもない程度の片毛の綿ネルが最もよいとされています。前にその布の表裏は、袋の内側に向かって毛のある方法を使用するように指定してありますが、新しい方法ではそれを逆に使用して、毛を外の方に向けます。実験によれば、毛を内側にしたものは、細かい珈琲の微粉末をとおしますが、外にしたものでは、採られた液体中にその痕跡を認めなくなるのです。
 なぜ従来毛を内面にするように指定したのか。それに対しては別に理由が述べられていませんが、袋に接触した水分中で行われる運動のようなものがあって、もし袋の外に微粉末が出るようなことがあっても、毛が外にある方が、浸液に微分の混入することを防いでいるのだと思われます。これに対する科学的実証はまだ行われていませんが、単純な実験上では、そういう結果になっています。
 袋の形については、湯がある時間袋の中に保たれ、次いで何の障害もなく袋の底の真中に向かって集まりながら、たやすく外に脱出で切るようになっていなければなりません。素材珈琲は熱湯に会うと、すぐ膨張して、湯の中で浮き出し始めます。その膨張は自然に導かれれば、その中を湯が通過するにもっともよい状態に、自分で配列して鎮まります。注がれる湯は、単にその中に珈琲を浸出させるばかれでなく、気圧とともに水圧となって、中で既に浸出した液体をいちはやく袋の外に押し出す役目をも果たしているのです。
 袋の中にスプーン等を入れてかきまわしてはならないということは、この理由からも推測することが出来るのであって、もしそういう方法が採られたなら、折角浸出された珈琲の純液は、袋の底からち直に浸出することを妨害されて、また再度素材珈琲に混ぜられることになります。このような経過が採られた場合、珈琲の浸液はしばしば濁ったり、また好もしくない味を呈します。少なくとも絶品とはいわれません。
 珈琲漉し袋はまた絶対に珈琲の浸液に漬つてはいけません。もしそういうことがあると、純良な浸液は水の交流作用によって、袋にささえられてまだ漉されずいる浸液の中から、直接に不純分を呼び入れるおそれがあります。そしてその珈琲浸液は、純良なものではなくなります。
 袋は使用に当たって、必ず清潔な水でよく洗い、固くしぼったものを用います。乾いた袋では、最初に生じた濃厚な浸液は、まず袋に浸み込んだり袋そのものから浸出するものによって浸液に異臭を付ける原因となります。こういう袋によって珈琲を浸出させる場合に、素材珈琲があまり細かく挽かれていると、濾過がしにくく、浸出が素直に行われないため、悪い結果をまねくことがありますから、磨砕の程度は荒くも細かくもない、中位のものが最も無難というわけです。
 少量をたてる珈琲漉し袋の形は、大体に掌を広げて見て、中指、薬指、小指の各第二関節を通り、掌の半ばの一端に及ぶ曲線をもってつくられた形のものが適当です。そしてしばしばいうように、珈琲は単純に見えながら、その単純な経過の間に微妙な変化を捉えるものですから、原則的な理由を知徳した上で、それずれ得意の型や方法を行います。

  その他の注意すべき事柄

 かつて珈琲は薬物だと思われていた長い期間がありました。そうした原因から、珈琲を煎じることによって、その成分を残りなく得ようとした原初の考え方が、どこかにまだ残っています。また珈琲の珍奇な種類ばかりが追求された時代もあります。しかし外国においても近ごろの嗜好としては、むしろ一般的な珈琲の良好さに眼がつけられ、特に珍奇なものばかりに執着しなくなったということです。珈琲の産地別による良否を選ぶことも大切ですが、それとともに名ばかりでなく、栽培についてよく管理の行われた、それ故によく成熟充実した珈琲を第一に押して、誰しも飲める珈琲が、美味しく正しくたてられねばならぬということを考えているのです。無論珈琲が本来嗜好飲料である以上、普通品でない品質のものを賞味することはあります。しかし普通の珈琲がよくならない限り、そういうことだけがある筈のないことは、珈琲の技術が---それは栽培から焙煎からたてるところまでを含めて決してそのことを許さないのです。そして始めて珈琲は広く、誰にでも好まれ、その親和の力となることが出来るものだと思うのです。そのことはいいかえれば、珈琲に関しては、愛がその本質であって、軽視や悪意はそのどこにもないものだということを、やはりそれ自身に示していることです。
 珈琲は出来るだけ愛情深く正しくたてれれたなら、後から決して手を加えて変形せしめる必要もないものです。ひとたび濁ったようにたてられたものを、ほかの物で吸収させて清澄に見せかけることは、本来ならば採りたくない方法であって、よく注意してたてさえすれば、決してそんな方法を後ろから採る必要もなく、立派な出来が得られるのです。これは現在ではどこでもそうに思われているに違いない、否、思われていると思います。
 また珈琲をたてるということは、決してたてることに目的があるのではなく、味わうことに目的があるのです。珈琲にかかわるすべてのよろこびはそこにあるので、従って珈琲の味もそのよろこびも知らずして珈琲をたてるということはあり得ないことです。
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