二、 珈琲の渡来



 アジヤ大陸から切り離された細長い列島に閉じこもって、日出づる国の太平楽を謳歌していた
日本にも世界の大海に立ち騒ぐ大波のうねりが打ち寄せて、かつて天女が羽衣を掛けてたわむれた白砂青松の岸辺を怒涛が洗ってゆきました。
 武士は寺院の梵鐘を海岸にならべ、大砲に見せかけて黒船の来襲を威嚇しましたが、大まかに眼もくれないで、異人はこの島に上って来たのでした。そして宥め賺しまた威圧して、その固隔の門を開かせたのです。
 幕末のそうした騒擾によって肝を冷やした日本人も、眼が覚めて初めて己の地歩のあまりにも世界の歩調から後れているのに驚き、生来の勤勉性に鞭打つてそれを追いかけました。
 嘲笑されながらも、何よりも模倣することが飛躍の段階だと思われました。それは軍備や産業がそうであったように、文化も風俗もそれに従いました。明治初年の鹿鳴館が代表するヨーロッパ的なの風潮の中に、珈琲はどんな形で臨んだでしょうか。しかしそこからは取り立てて何の発見もありません。
 珈琲は、既に徳川の末期からただなんとなく、むしろさり気ない風をして、人中よりもあるいは家庭内に細い流をつくっていました。既に早くシーボルトは、彼が始めて日本に来た文政ごろに、日本人が珈琲好きだということを見抜き、オランダ政府に缶入りの珈琲粉末を日本向けに輸出することの得策を献言しているのです。彼の日本滞在は1823年から、1829年までの6年間でしたが、そうした献言もあってか、まもなく各種の珈琲が伝えられているのです。またそうでなくても欧化された家庭では、相当に飲み始められていたと思われます。日本独自の飲み方はどこにもありませんでしたが、後に珈琲店が一般に流行し始めた時に、そこに集まる人間の間に一種の批判眼があったことは、間違いなくどこかでその人達に珈琲が飲まれていたからこそでした。そしてその批判はどっちかといえば、フランス風の珈琲の常識によっていたと思われます。
 ちょうどアメリカの珈琲が、新天地の珈琲でありながら、師範をフランス風に求め、またフランス風に化された東方の原型を垣間見たように、日本は明治後期から大正・昭和にかけて、追々に民衆の間に珈琲が普及しはじめた頃は、もっぱらアメリカからその伝授を受けながら、その中からフランスの趣を捜しあてんとしていました。
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