三、 カフェ抒情


 東京では明治21年可否茶館と銘打った珈琲店が上野黒門町に出来、玉突があったり、トランプや内外の図書を備えたりして、常時では相当に新新なものでした。その後明治23年には、浅草六区のパノラマ館の中にダイヤモンド珈琲店という軽飲食の店が出来、大衆にコーヒーを飲ませはじめました。しかしそのいずれも長続きはしませんでした。
 日本人が有頂天になった日清日露の戦勝の後、一躍世界の一等国に列した日本の首都では、人の心もそぞろ酔うようなものがありました。すでに西洋料理を食べさせる店が、大はホテルや有名店から、小は街の中の此処彼処にできて、念入りな店では料理にはやはりコーヒーがついていました。一流のホテル等ではいつも洗濯された、清らかな白布のテーブルに着くと、西洋の模範通りに整然と料理が運ばれ、ボーイは人目につかぬあたりから、客の食事に気を配っているのでした。
 そうした中から一際目立って、本郷3丁目の青木堂や、日本橋小網町の鎧橋際のメーゾン鴻ノ巣や、京橋区日吉町もカフェプランタンや、京橋区宗十郎町のカフェパウリスタが出現して明治は大正へとやがて移り変わって行ったのでした。大学の教授達や、文筆家や、書家や伊達者が高踏的な雰囲気に浸ったそうした場所は、どこかいままでにない垢抜けしたものでした。
いわば生々しい何かを持っていました。
 その何かがなんだろうと追求すれば、そのころの一つの自由精神でした。羈絆から解き放たれた奔放な思潮は、文芸にも大きな影響を与えて、明治後期の女性の進出を促していました。かつて本郷三丁目から小石川の春日町に下り、また富坂を上った伝通院のほとりに、樋口一葉が出たとはいっても、青踏社の物怖じしない感情とは全く異なるものでした。
  柔肌の熱き血潮に触れもせで淋しからずや道を説く君
 と新時代の予感をかねて歌いあげた与謝野晶子に続く一群の女性たちは、平塚らいてうを中心として、明治四十四年その青踏社をつくっているのですが、彼女達がまた自由のメッカ、パリの悌を忍んで、新鮮味の溢れた珈琲店に通ったとしても不思議はありません。
 しかしそうした外見があったとはいっても、珈琲はまだ日本の世の中に、その全貌を現してはいないのでした。パウリスタだけがすぐあとに続く、珈琲の発展期の前兆ではありましたが、他は多く、あるいは食事が主であったり、あるいはエキゾチックな酒が主でした。日本の詩に新しい分野を拓いた白秋も歌っています。
      空に真赤な雲の色
      瓶に真赤な酒の色
      なんでこの身が悲しかろ
      瓶に真赤な酒の色。
あるいはまた

      あかい夕日に、つい、つまされて
      酔ふて珈琲店を出は出たが
      どうせわたしはなまけもの
      明日の墓場をなんで知ろ。


  尖端を切った詩人も、特に珈琲を歌いませんでした。珈琲がまだ真の価値を生んでいなかったからでしょう。そのころの新興精神の中から、珈琲についても、ヨーロッパ的、中でもパリ的なものと、アメリカ的なものとの二つが、既に先駆しているのを見逃せないのです。

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