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 四、 珈琲興亡記


  やがてカフェーと名のつく店が陸続と出て来ました。東京と大阪とがあい呼応したその風潮は全国に及んで、大小数知れぬそれらの店は、カフェーと名乗っても珈琲を売る店ではなく、西洋料理に配するに酒と女とをもってしていました。第一次世界大戦で優位にいた日本は、ほとんど労せずして、英米とならんで、でかいの三大強国となったころのことです。いわば不自然に、しかも急激に増大した国家は、そのあらゆる部面に不安定さがありながら非常に気ぜわしくなく、何も彼も取り入れようとあせりにあせっていたともいえます。それはあらゆる世相についてもいえます。その不安をまぎらすためにも、カフェーがあったのではありますまいか。
 しかしそれはあまりにもうがち過ぎた一時の倫安かも知れません。銀座尾張町の現在の三越はそのころ服部時計店で、その四つ角をはさんで西側に、カフェーライオンと、やがてビヤホールにかわりましたが、カフェータイガーがありました。銀座は昔ながらの赤い煉瓦地に柳が生え、古風な店舗が思い日本瓦を乗せた屋根をならべていました。古いものと新しいものとが混淆していたことは、町のありさまにも人心にもあることでしたが、有名なカフェー出現した女人象は、柳暗の巷に古来の因習を遵守していた人形の家の女達を一時圧するばかりにその伝法を謳われたものです。そして珈琲は何気なく、町の片隅の小さな店で、ミルクやパンと一緒に売られて、その真価をわびしくかこっていました。
 一瞬の中に東京を崩壊し、炎上させた関東大震災の後、慌しい復興の槌音の間から生まれたものは、急造えのバラックから始まったものでしたが、積み重ねた伝統の土台の上に建てられたものよりも、どこか民衆自身の手によってつくり、また得ようとしたその自由精神は、すっぱりと気取りを捨てた、粗野ながらも身近いものでした。だがそれはリベラリズムとコンミニズムと、キャピクリズムと、ミリタリズムとが、その他の雑多なイズムと主流を争っていたのかも知れません。
 それはさて置き、町の中に出来た飲食店は震災の前の形式から分派して、酒場、料理店、ビヤホール、フルーツパーラー、喫茶店、菓子店、ダンスホールと、その内容に相関したものを持ちながらも、その名の示す通り、それぞれの特色を持ったものとなりました。
 貿易振興の余得と思われますが、世界の消費国ともなった日本を目指して、各国の珈琲が休息に入るようになっていました。わけてもブラジルは日本移民がかねてから行っていた親しみもありますが、またその余剰の産出珈琲の仕向地として日本を選び、アスムソンを送ってブラジルコーヒー宣伝本部を開いて以来、珈琲といえばブラジルと思うほど日本人の間に行きわたったものです。
 そこで珈琲は二つの道に分かれて、あまねく一般的に普及し始めました。にわかに林立した大衆のコーヒー店が、その価値はともかくとして、熱い黒い液体の魅力を大衆の嗜好に密着させました。一方それこそいたるところに出来はじめた喫茶店が、稍々高級の珈琲を提供して、インテリゲンチャの愛着を限りなく深めました。
 かつて高嶺の花と一般からは近付きかねて見られていたメーゾン鷹の巣やカフェプタンタンやそれは何も気兼ねするほどではなくても、唯一の存在で一般はそうそう行かなかったカフェパウリスタ等に引きかえて、昭和初頭の喫茶店は、民衆とインテリゲンチャの自ら培養したものとして、この上もなく親しく愛されたものでした。無論喫茶店という名のもとに、そこには酒やその他の諸飲料とともに珈琲がありました。しかし一杯十銭あるいは十五銭の珈琲は、喫茶店に足を踏み入れる最も重要な目的物でした。

 そのころの喫茶店はまたそのそれぞれの経営者の性格をも反映していて、それは商売というよりも、どこかそのおのおのグループの如き感を呈していました。無論はっきりと客をわけへだてしたのではないにしても、自ずからその店の性格が定められて、いわが教授達の店、学生の店、文士や書家達の店、革命的なソシャリストの店、サラリーマンの店、またはクラシックな音楽の楽しめる店、ホットジャズを聞く店、等等がありました。
 それはどこか世をすねたり、または好んでその世界に投じて行ったれつきしたインテリが、そうした喫茶店の主人に相当多かったということでもあります。またそういう店のマダムや花形の女達には、実際新鮮で溌剌とした、情操豊かな者も多く、アットホームな中にも、一種の開放された空気をつくっていたことは、かつてどの時代にもないものでありました。
 しかしそんな店は皆あまり長続きせず、商才に富んだ経営者から騙逐されて行きました。しかしそのころの喫茶店が持っていた特性は、明治後期に出現したエキゾチックなカフェの特色と異なる、大衆とともに良くなればなり得る素質を持ったものでした。そしてまたそういう喫茶店は、銀座よりも、本郷、神田、渋谷、新宿と、おのおのの地方色ともいえる町の特色を持ったものでしたが、中央線沿線の各駅ごとに、素朴な形態で明滅したそれらは、その当時の一つの偉観ですらありました。
 珈琲はといえば、大規模の形式で行われた店舗では、概してというよりもそのほとんど全部がアメリカの一般的な方式に従って、珈琲アーンを使用していましたが、小さな喫茶店では客数からいっても、経費の上からいっても、そうした方式によらないで、ひとりごとにたてるいわば原始的な方法によっていました。それは洗練されたセンスによって、期せずして珈琲の純粋性を追求する契機を生みました。それはまたそういう店に集まる客の中からかえって珈琲の本来性について示唆されたり、一緒に一層よいものへと高めて行く結果を生みました。
 期せずしていわゆる当時の喫茶店は、それ自身の中でまた新しい文脈運動を起こしていました。それはただ成り行きにまかせた軽喫飲店と、飲料物中特に珈琲に重きを置いた、いわば純然たる珈琲店とでしたが、その珈琲店はまた店主の性格を反映して、珈琲愛好の風潮に乗じてただ膨張された、見せかけの内容しか持たぬものと、真に珈琲に打ち込んで行ったものとでした。そしてその最後のものは、まだ一部からしか支持を得ない間に、経済的にも破綻に瀕して行きましたが、前にもいったように、全世界の良質の珈琲が集まって来ていた当時の日本において、細やかな日本人の特性によって、日本人なりに珈琲の本質を見極められる緒が見出されていたということは、確かにいい得ることだったのです。またその特異な現われを見逃しても、珈琲は既に大衆の間にひろく行きわたって、すべての嗜好飲料中、抜群の愛好物となっていきました。
 しかし夕焼けの空に映ずる華やかに彩られた雲にも似て、すべてを一色に包む夜の暗さが追っていました。他のすべてのことがそうであったように、珈琲もまた珈琲店も息詰まるような圧迫にあえぎながら、遂に完全にピリオドを打たれたのです。1940年、世界は第二次大戦の大動乱の中に巻き込まれました。すべての自由と高雅な気風を、人間はどこに求めあてようとしたのでしょうか。
 腥い風の吹き荒ぶ5年の間に、日本は荒廃し、東京は再度焦土と化しました。その熱火の洗礼の中から、真に人類の名において、日本人は日本人の生きる道を見出す衛を教えられたのです。2600年とか、3000年とか、あるいはまた2000年とかいう、その開国の歴史はどちらにしても、永遠からいえば一瞬ともいえますが、また長いといえば長い胎動の結果、いま開国したように、赤裸に人類の自然と人生を直視し得る眼を開いたのです。世界も見てくれ、また見ていてくれといいたくなります。また誰もなぜそれをいわないのでしょう。
 困苦の中にいて、いわば取るに足りない小さな珈琲の実の中から、真に価値あるものを見出すことが出来ただけでも、絶大のよろこびとしている日本人もあるのです。実に何気ない、しかし味わい深い滑らかな液体にひそむその友愛性は、なんとたぐいないものではないでしょうか。一つの自然物が持っているただそれなりの美しさは、なんの飾り気もなくしみじみとした同感を起こさせるではありませんか。世界のここの人も彼処の人も何をどうということなしにその種子からつくられた優れた飲物を。しかも手ずからつくって飲み合おうではありませんか。裃を脱いで平服で一ついかがですか。そうして出来た友情深い語らいの中から、『応』と肩をたたき合って、真に人類の平和と自由とを分かち合うことが出来るのです。まあそんな結果論はどうとしても、なごやかさが出来ることだけは確かです。この言葉を架空な、贅沢な日本人の夢だと思わせないで下さい。

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