二、 茶・煙草・珈琲余談


 何しろ忙しくて仕方のない時代でした。物事にはちっとも拘わることはないと思わせたことでしょう。にわかに広くなった世界には、まだ誰も行かない国々があって、そこへ行けば宝の山が横たわっていると信じ込まれていました。マルコ・ポーロの伝えた東方の話は、もうそれから200年も経ていましたが、また新しい幻想となって野心を掻き立てました。
 狭い天地に飽き飽きしたヨーロッパ人は、げんきさえあれば東方へ行ける道のあることを知ったのです。地球は確かに丸いものでした。何もベネデャやオスマントルコに押えられて指をくわえて見ていなくても、東洋の珍奇な物産をしこたま持って来られることがわかって、どこよりも早く海へ乗り入れて行ったのは、ポルトガルとスペインでした。
 1488年ポルトガルの船将ディアズ、喜望峰に達す。
 1492年スペインの船将コロンブス、アメリカに達す。
 1498年ポルトガルの船将ガマ、印度に至る。
 1500年ポルトガルの船将カブラル、印度への航行途上ブラジルを発見す。
そして引き続いてスペインの船将マジェランによる世界周航、イギリスの船将ドレークの世界周航、オランダ事実上スペインより独立して海上自由競争に入る、等のことがその後僅か100年間に起りました。
 だが宝の山もさることながら、思いもそめずヨーロッパ人を面食らわせたものがありました。
それは珍奇以上に珍奇なもので、ただ水と煙にしか過ぎないものでしたが、その少し薄気味悪いものは、それでいて不思議に人の心を引きつける魅力をもっていました。そして試みに幾らか気にしながら味わって見ると、その刺激的な味わいを持つものは、かつて想像もしたことのない快い身心への影響を直ちに現すものなのでした。その頃の向こう見ずのヨーロッパ人が、無雑作にそれらを取り入れました。いや、向こう見ずばかりではなく、彼等のざっくばらんな性格からは当然なことだったでしょう。
 茶と、煙草とが、まるで申し合わせたように、西欧が海外自由競争を始めるとすぐ次々にヨーロッパに入って行ったのです。コロンブスが三艘の船に120人の部下を従えて、70日の航海のうえ初めて上陸した島で、(彼はサン・サルバドルという名を与えたのですが)
そこで土人達が頗る大切に取り扱っている、匂い高い枯れた植物の葉に気付いて「土人にとってこれは余程貴重なものに違いない。」とその日記に記しています。
 それから数年後、1497年にラモン・パアネがした報道が、ヨーロッパに煙草を紹介した最初の文献だということです。煙草の現物は1556年にブラジルからフランスへ初めて種子が送られています。それはまたフランスからすぐ、オランダやイギリスに伝えられ、1560年にはロンドンに煙草の風習が始まりかけていました。
 その頃には既にポルトガルの船で、支那茶はヨーロッパへ行っていました。貿易の根拠地として栄えたリスボンの港町は、茶でもヨーロッパの総卸しを引き受けて、ポルトガル商人はそれがすぐ大きな利益を生むものになることに着眼していました。
 珈琲はその頃まだ漸く文献による紹介が始まったばかりで、ドイツ人医師レオナルド・ラウオルフが、1582年発表した旅行記で、彼が5年前アレッポの前で見てきたチャウベと呼ばれる黒い熱い飲物が、深い陶器の碗に入れられてトルコ人に飲まれていることを伝えているのが最初です。それから暫くの間幾つか通信や観察が続けられましたが、公然と一般に珈琲の現物が入るようになったのは少しおくれてからです。
 運搬にやや重量のかかったことから珈琲が、手軽に携えて行ける、煙草や茶にくらべて後れたのかも知れません。それは使用法からもいえることであって、簡単にポケットから出して火さえつければ用いられる煙草は何といっても一番手っ取り早いのでした。
 めまぐるしく次から次に訪れる刺激的な嗜好物に、ヨーロッパの開化人達は目をまわしたり喝采したりしました。実際に目をまわした者には、一世を風靡した皇帝ナポレオンすらいます。煙草嫌いで有名なナポレオンは、それでも臭煙草だけは一生愛用していましたが、殆ど絶対に煙草を吸うことはしなかったのです。しかしエジプト遠征の時、そこではペストが流行していました。その頃ペストの予防には、煙草を吸うのが一番良いと信じられていましたので、側近の勧めもあり、自分でもついその気になって、丁度ペルシャから献上された煙草のパイプがあるのを持参させました。
 物々しく部下に手伝わせ、皇帝は一服咽喉に入れました。途端に猛烈な咳と胸苦しさに襲われ、息の根も止まる程の苦しさに絶え絶えに叫びました。
 「苦しい。下げろ下げろ。怪しからん。一刻も早く取り去れ。」
 だが皇帝はそうであっても、遠征軍の将兵はペスト予防ばかりでなく煙草を吸いました。
煙草がえらい勢いで流行したことは、19世紀初頭ロンドンで描かれたものですが、一幅の戯画がります。それには一人の貴顔と一人の淑女と、三人の紳士と、片手に鈴をぶらさげたずんぐりのぎょろ眼の町人の親爺と、者を担いだ一人の小僧と、一匹のブルドックが路上にいて、人間は皆それぞれのあり様と姿態で、いとも得意気に頬をふくらませて、思い思いの長短の煙管から煙を吹き出しているのです。背景にも幾人か人がいるらしいのですが、それらは皆
埋めつくした煙草の中にかくれて、僅かに見える一軒の家の影も、家の棟の一角だけがかすかに霞んでいるのです。そして右背に讃がされていて、
 「流行を追い得ずして生きる甲斐なきわざ。」
と記されています。そういえばただ一つそれだけは煙草を吸わぬブルドッグが、しょげた格好で尻尾を股の間に巻き込み、肩身の狭い表情をして蹴飛ばされそうな道の真中に佇んでいるのです。そしてその額縁の下には、また別の文句が刻まれています。
   ”Puff,Puff,It is An Age Of Puffing,Puff, Puff,Puff.”不図白秋の『煙草のめのめ』の歌を思い出させる文句です。
          煙よ 煙よ ただ煙
          一切合切 みな煙。
   茶は三者の中で一番無難でした。それは別段紹介されるまでもなく、手に取って見ればすぐわかる平淡なものの良さを持っています。それに茶は支那で老子以来の長い歴史を経ていて、ヨーロッパへ現物が伝えられたのも、洗練された立派な製品としてでした。茶は原料ばかりでなく、道具と風習とを一緒に伝えました。
 茶は飲物として了解するのには確かに無難でした。しかしそれは余りにの高価すぎて、到底、一般人の手には入り難いものでした。どこよりも早く、そして多くロンドンで使われ始めたとはいっても、それは限られた富豪や貴族の社会ででした。例えば1ポンドが15シルリングしようとも、「かの卓絶せる。且つすべての医者の推奨せる支那飲料」チャ(Techa)は、金持ちの社会に迎えられると、無くては社交上の恥となる程に流行しはじめました。またそれ程の見得坊でなくても、頗る気の利いた貴族趣味となって、種々珍しい東洋の道具と共に、彼等に満足を与えたものです。
 新興オランダが船を出して海上を往き交い初めると、いつしか極東の海に優位を占めて来ました。支那茶はそういうオランダ船にも乗せられて普及の度を加えて行きました。1636年にはフランスに、1638年にはロシヤにまで及びました。簡単に煮るだけで何気なく飲めるその渋い味は、それだけでなかなか上品でもあり、さっぱりとした気散じにもなるシックなものでした。「東洋的だね」と悦にも入れる。これは町中よりも家庭で重んじられました。1711年スペクテーター誌は、その雑誌の販売広告に
「毎朝、茶とバクときパンに一時間を取っておかれるような、すべての立派な御家庭に特にお勧めしたいと思います」
 と書きました。天心は茶を褒めるあまりに「茶には酒のような放漫なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、又ココアのような気取った無邪気もない。といいましたが、どうしてヨーロッパで飲まれた茶には、放漫こそなかったが、それなりに気取りがあったようでした。珈琲は珈琲なりに、茶は茶なりに、いずれも悪くない大人の飲み物です。ただいずれもあまりにこだわりなくたてもし、飲めもすれば、いつまでもその価値は失われません。

 ラウオルフが珈琲を紹介した記述があったから、漸く70年を経て、1652年に珈琲は初めてロンドンのセント・ミカエル・アレー(St.Michael's Alley)に、ギリシャ人パスクワ・ロッセが開いたコーヒーテントに公然と御目見得したのです。もっともその直前にサルタネス・ヘッド(Sultaness Head)という店があって、珈琲を飲ませましたが、その時はまだコーヒーという名称はなく、コピーハウス(Cophee house)を名乗ったものでした。
 珈琲が煙草や、況して茶に比べて、問題にもならぬ程近い所にあって、またそことは満更行き来がない訳もなかったのに、声ばかれでどうしても実物が現れなかったということは、その嵩ばる目方だけのことでもないようです。
 十字軍の事以来果し合いの間柄では、ヨーロッパに取ってトルコは目の摘でした。チグリス、ユーフラテスの流れる、バビロニヤ平原に華やかに咲いた昔の栄は、やがて全てセム族の原住地アラビヤに起った回教徒に引き継がれました。ヨーロッパの物固く鎖した中世紀をよそにいわゆる、サラセン大帝国が起こり、回教の本山三カリフは、バグダッドとカイロと、イベリヤ半島のコルドバに鎮座しました。やがてまたこのあたりにも隆替があって、遊牧の民の中から起こったオスマントルコは自らスルクンとなり、またカリフを称しました。
 太古にアジヤの西域を出て、更に西の大陸に諸邦を開いたヨーロッパ人にとっては、その聖者キリストの生誕地、ヨルダンの流に臨むエルサレムが、徒にカリフに占められて物の哀れを止めていることは何とも許され難いことでした。
 しかし近世の開放時になって見ると、ヨーロッパ人はまた別の考えになっている自分を見出したのです。手をぐんと延ばして見るといい気持ちだし、足を踏み直して見ると大地ははずむように生きた鼓動を足裏に伝えて来ます「いいよ話はゆっくりつけることが出来よう。」とばかりに、トルコ人とも手を握る気になりました。するとその返礼に珈琲が来たのです。
 現物が届くまでには70年かかりましたが、それがロンドンに現れると、良いものは良いとばかりに、忽ちのうちに人気を呼びました。ロンドン中にコーヒーハウスが出来はじめると、政府は気付いたように1660年には、珈琲1ガロンにつき4ペンスの消費税を課しました。それから3年後には、コーヒーハウスは開業許可制となりました。だがそんなことでひるまない物の勢いは、やがてロンドンのコーヒーハウス3000という数になったのです。
 アルカロイドの嗜好品が持っているカフェイン(テイン)やニコチンは吸引や飲用による極く微量の摂取でも、神経に及ぼす影響は相当大です。未開人はそれを霊薬とも魔法の力とも思いました。人知が発達してからはそんなことはなかったのでしたが、流行のはじめに、医師が真先に薬と思い込んだことは、煙草も珈琲も同様な過程でした。
 17世紀の初葉は30年戦争によって、ヨーロッパは大混乱に陥った時ですが、敵味方の間を煙草だけは却って繁苦く往来して、その流行を一生広めていました。その頃煙草は医師医師によって皆用い方が違いながらも、臭薬や、内服薬や、外用薬として、結局万病に利く薬と思われたようです。しかし批判者もあり、また反対者もいました。反対の理由のひとつは30年戦役で各国が疲弊したのに、人民が消費する煙草の量が、あまりに多かったからでもあります。
禁令や罰則も出ました。宗教もそれに加担しました。それを裏付けるように、また煽るように、1653年ヘルムシテット大学のタッピウス総長は、学術的な立場から例証を上げて意見を述べました。「喫煙によって、人体の血液と頭脳とは熱せられ乾燥される結果、頭がまるでストーブのようになってしまう。従って人間の凡ゆる才能を殺すものだ。ビイル及び葡萄酒の害悪は人の知るところだが、煙草はそれにも優つた、悪魔の奸譎なる戦略である。」
 だがそれに対抗するような、また別の意見もありました。
 「医師のいう通り、適度に用うるなら、タバコはまことに有益な健康剤であって、外用しては痛みと傷を癒し内服すると頭痛に大きな効用を及ぼす。その理由は若し人間の頭脳が、冷たい粘液性の湿気満たされることが甚だしい時は、極上の煙草を一服すれば、脳は海綿を絞るように圧され、滞留する湿気は放出されて、神気とみに清々しくなるのである。」
 てんやわんやいわれながら、心配されたり無知だと思われた民衆自身が、その適度の量を一番良く知っていてなんといわれようと喫み続けました。ただタッピウス先生のいつた言葉は、ニコチンどころではなく、人間の頭に余程深くこびりついたと見えて、その後誰も煙草を薬だとは思わなくなりました。しかし脳に湿気がたまると----とかくそれは始終たまり勝です---きつい煙を吸い込んで、頭の中の海綿をしぼることはいつか人間の習性となったようです。

 珈琲は16世紀半ばにトルコに移ってから、はじめて飲料としての真価を持ち始めたものです。アデンで回教の都督が一般に開放したのでさえ、15世紀半ばのことにしか過ぎません。アラビヤの躁期と殆ど時を同じくして、人間の手に採られてから、それまで約6世紀間は珈琲の薬時代でした。カイロのラリフは幾らか進歩的だったので、コンスタンチノーブルより早く珈琲店が現出していたとはいっても、やはりアデンの開放以後のことなのです。
 ラウオルフが1572年アレッポから、アルビンが1591年カイロから、各々見て来た珈琲は、無論飲物としての珈琲探索でもありましたが、それ以上に薬物として珈琲に注意が払われていました。今からいえばそれはカフェインの薬効にしか過ぎません。そしてカフェインだということが知れわたってから、却ってその使用量やカフェインの特性等から、珈琲が警戒されたり、掣肘されたりしたこともありますが、それも多くは経済的な、従ってまた政治的な意味から牽制されたためだったと思われます。
 人間の飲み得る珈琲の量の中に含まれているカフェインは、得意質の人体でもない限り、決して害を持つものでないのです。そしてまたカフェインは極く微量であっても、その効用は相当大きな良い影響を現すことも、また知れわたったことです。従って珈琲が未開の期間中、
6世紀にもわたって薬だといわれ、それがニコチンだとわかってからも、成程毒かなと幾らか思っても、
立ちのぼる煙は少しも減るどころではなかったのですが、珈琲は何といわれても、やはりどこかで薬だという気持ちが去らないので、飲む場合には一々誰もそんなことを意識もしていないのに、薬効説がいつまでたっても口にのぼるのです。兎に角珈琲にはそれが決して害悪ではないという言説が非常に多いのですが、いずれにしてもそんな説明の多すぎることはまだ未開の名残りかも知れません。
1657年(ロンドン)にコーヒーハウスが現れてから5年目、珈琲が課税されるより3年前)ロンドンに出た珈琲の売り出し広告にこんなのがあります。
「元取引所裏通りにおいて、コーヒーと呼ぶ、種々優れた点のある飲料が売られる。それは胃腸を強健にし消化を助け体温を高め精気を強め精神を爽やかにし、眼病咳風邪リウマチ肺病頭痛水腫痛風壊血病その他に効果がある。」
 薬効はこれどころではありません。それから30年後のドイツでは、
「珈琲は胃を温め、これを強くし、肝臓や脾臓の内部閉塞を開く。胸部の加答皃、感冒、月経及び尿の利通、血液の上昇、体力の脱した者、放屁水腫謄汗の過剰、癈症、ヒポコンデリー症メランコリー、結石、痛風、血液の変性、食欲の不振に効あり。また妊娠、婦人の分娩促進には珈琲の実を生のまま食べることが、特に有効である。」
  それはやがて日本にもそのまま現れて来ます。 1840年頃(天保年間)海外異聞に、
「コウヒイは其樹高さ8尺より1丈斗に至る、樹皮柔にして木理うるはしく、枝葉対生し甚繁茂せず、葉の長さ3寸斗、形栗の葉に似て頗滑なり、光沢あり式に凋まず、葉の間に六出の花開き其栞の中に小さきかたまりあり、漸に実となりて大きさ桜の実の如し、熟すれば紅なり採りて乾けば黒色に変、殻の中に二つの豆の如きものあり、是を炒て銅の磨にて挽砕、砂糖にまぜて熱き湯に点じ飲也、味香しく、能飲食を進め、心気を健にし、頭痛を軽し、風邪痰疾水腫湿気等を除き、経水を通じ、肝胃子宮等の諸病を治し、能瀉利を止てしかも秘結せず、其外功績多物なり、西洋人好で是を用ゆ。」
 蝋慕仙人も村井源水も到底及ぶところではありません。もっとも外科専門の両者は、万能内服薬として彼等の秘法に珈琲を加えたかもしれません。医者はとうに廃業して皆珈琲屋にならねばならぬ程です。因みに海外異聞に六出の花とあるので、この時日本へ紹介された珈琲が、恐らくロブスタ種であったと思われます。そしてまたその実を炒ってうすで挽き砕き、砂糖をまぜて熱い湯で煮て飲むということは、やや鴎化されたトルココーヒーの飲み方であったことがわかります。

「この世の総てのよい物と同じく、茶の普及も亦反対に遇った。ヘンリーヒイヴィル(1678年)の如き異端者は、茶を呑むことを不潔な習慣として口を極めて非難した。ジョウナス・ハンウェはいった。(茶の説・1756
)茶を用うれば男の身の丈低くなり、緻縹を害ひ女は美を失ふと。」
 とは岡倉天心が憤慨して吐いた言葉です。他のいずれよりもやわらかく、また何気ない肌合いの茶すらも、流行すれば打たれたのです。そして一旦人の耳についた言葉は、時が過ぎても容易に脱けきらぬものです。茶は薬だとか毒だつかいわれるよりも、もっと平易なもの---それは
 詰らぬという意味ではありません。何の誤解を受けるはずも無い程の意です---なのに今でもどうかするといわれます。「お茶を飲むと色が黒くなる」するとその時だけでも、お茶のすべての良さは消えて、手に取ることも控え目にさせます。まさか茶のことで喧嘩をする者もないのですから、茶のタンニン位で黒くなる顔なら、よほどの鉄面皮でなければならないはずです。「図々しいね」といわれると同じことです。そして若しほんとにそうだったら顔の色は黒くなるより赤くなります。それは恥じても怒ってもです。天心に代わってハンウェイ先生に差上げる言葉です。決して怒っていっているのではないから、顔は格別黒くも赤くもしていません。茶にこと寄せて少し顔色にこだわり過ぎました。
 だが茶はイギリスでは大流行を来し、珈琲を完全に圧し去ったことがあります。そのきっかけは1675年頃のことです。その頃珈琲はまだ人気の絶頂にありました。町の珈琲店は人士の集まる所となり、何か一種の勢力を持つかとさえ見えました。クロンウエルの痛時のあった後で、その死に依って王権は快復されましたが、民心はまだ動じ易い状態にありました。秘密集会法が出たり、宗教的会合すら禁じられていました。また疫病の大流行や大火がロンドンには引き続いて起こり、スコットランドの反乱もありました。
 無数のコーヒーハウスに人が集まることは危険千万だとして、チャールス二世はその閉鎖令を出しましたが、あまりに物々しい閉鎖令の不得策を知って、禁令は直ぐ解除されてましたが、しかしそれから後も、コーヒーハウスに対する監視的な弾圧は引き続いて行われていました。
こっそりと裏口営業が始まり、宿屋や料亭にかくれて飲むことにもなりました。必然的に飲物の好みは珈琲から茶に移って行ったのです。ところがいつまでも圧迫の仲にいない人民は、やがてより自由さに己を解放して行き、コーヒーハウスは再度前にも増して繁栄しましたが、その時珈琲の地位は茶に代わっていました。それ以来イギリスは茶の国となったのです。

 パリはやや違いました。1669年トルコ大使ソリマン・アガが来任すると、彼は賓室に官臣達を招いて、純トルコ風のコーヒーを餐応しました。それは調度のの美を凝らしたもので、貴族社会の流行すらつくったものでした。それから20年を経て、1689年カフェプロコープが始まりました。そしてプロコープは完全に市民のものとして、その手の中に繁栄していきました。
 プロコープにはダントンや、ロベスピエールや、その他フランス革命の志士達が集まって来て、盛んに扇動的な演説をして民衆を煽りました。彼等がどんなコーヒーの飲み方をしたかは語られていませんが、プロコープの常連の中でも、さすが芸術家のボルテールは違ったものでした。ボルテールが猛烈なコーヒー飲みだったことは、誰にでも語られる有名な話です。老いてますます盛んなこの劇作家は、少しも消耗しないその精神力を鼓舞し、激動する興奮剤が珈琲の中にあると思っていました。あまりの飲み方に知人の医者が心配して、「珈琲は徐々に人体に害を及ぼす」と、注意しました。するとボルテールの答えは誠にふるったものでした。
「そのことなら84歳になるこの私が一番よく知っている。」
 文学者といえばバルザックも珈琲の雄です。まだ貧乏で屋根裏住いをしていた時でも、珈琲をたやすことが出来なくて、彼は自分でたてて飲んでいました。人気作家になり、友人や弟子達とパリの腕つこきの珈琲店を飲み歩きましたが、彼の腕前を知っている者は、彼が自分でたてる珈琲がどこの誰にも劣らない美味いものだと嘆賞したものです。
 煙草嫌いな皇帝ナポレオンも、珈琲は非常に好きでした。しかしこの繁忙な王者は、少しも待て少時がなく、「珈琲」と命じると直ぐ出されねば気に炒らないのでした。ヨーロッパを席捲したその風格の中に、若し悠然と珈琲をまつ程のゆとりがあったなら、そして真に一杯の珈琲をうまく味わう気持ちがあったなら、ヨーロッパの歴史は違っていたかもしれません。
 プロシヤの英主フレデリック大王も、珈琲には話題を持っていますゲーテやシルレルやフィヒテやカント等、多数の異才を輩出させ、ドイツ国民文化を挙げた啓蒙君主も、珈琲流行の兆しには手を焼きました。そういえば不出世の文豪ゲーテが、煙草も珈琲も嫌いだったのは、むしろ不思議な位です。
 大王は1777年珈琲について、国民の注意を促しました。大王はその国民が多量に珈琲を飲み始めたことによって、多額の国幣が失われることを憂いました。そして出来れば珈琲を飲むことを抑止し、国民は国家的飲料ビールを飲めと推奨しました。しかしそんなことで停止出来ない珈琲の愛好性に気付くと、大王は一転して珈琲に高率の税を課し、輸入と販売に関する法律を制定して、1781年には遂に政府の専売にしました。

 クロンウエルの峻烈な革新を起こさせた無謀のチャールス一世の専制に反対して、イギリスを去って新大陸に赴いた清教徒達は、各国の利権や開拓の困難さに打克って、遂に13州に新生活の基盤を築き上げました。彼らは故国を去ってもイギリスへの思いは捨ててはいませんでした。王権が復活する前年、ウロンウエルが歿するとすぐ、1659年ヴァージニヤはチャールス二世を王と宣言し、王統の総督を復任せしめました。彼らは故国の風を伝来して茶を非常に愛好していました。
 その後一世紀を経ました。故国はなお暴政を布いて、開拓地の生活は塗炭の苦しみでした。
1776年ついに立ち上がった彼等は、五月大陸会議を開き、英王の権威の無効を宣言し、各州に独自の政府を開くことを從慂しました。その席上、ワシントンは茶を食卓からく駆遂しました。
ボストンでは重税の課せられた茶間函を潔く海に投じました。
 愛着の遮断にもまた大勇猛心がいります。これを狼煙のようにして、7月4日独立宣言が発せられました。茶を捨てた彼等は必然的に珈琲を選びました。かつてイギリスで捨てられた珈琲は、図らずも合衆国に新天地を開いたのです。たくましいアメリカの新精神と新生活の中に、珈琲は大きな役割を果たしながら、遂に世界の全産量の大半をそこで費やされることになったのです。
 今次の対戦の前、ヒトラーは100人の精兵を選んで、二つの兵舎に入れました。全く同条件で同様の体力を持ったこの二組に、食事の他には一組に珈琲、一組には紅茶しか与えませんでした。そして丸一ヶ月を経て、この兵隊達は全く同条件の耐久訓練をやらされました。紅茶の組は珈琲の組より早く疲労することがこのヒトラーの実験でわかりました。
アメリカでも珈琲が特に重んじられた報道があります。
「最近ワシントンから来た報告によれば、戦争に不可欠の軍需品の品目の中に、珈琲が入っているとのことだ。珈琲は軍隊は勿論家庭においても、士気を維持する上に極めて重要なものとされている。」(珈琲研究昭和14年5月号)
 果たして戦地に送られた携帯食料の中には、珈琲の新製品ソリブルコーヒーが入れられていました。
 その頃の同じ雑誌に、ドイツが必要量上の珈琲を買い付けている理由に、不審を抱いたことが出ています。やがて日本より一足先に戦争に入ったドイツ向けの珈琲を積んで、日本船は太平洋を戻って来ました。世界の海も陸も、そのどこを往き来する隙間もなくなりつつありました。期せずしてその珈琲は日本に引き継がれ、そのまま5ねんっかん殆ど利用されることなく、かくれていたのです。ドイツに行くべくして行き得ず、日本とどまる運命となった珈琲は、戦後に日本で徐々に出されました。管理下に幾らかずつ開放され初めていたのです。焼け野原の中にあたかも平和のしるしの如く日本人が見出した珈琲の中に、丁度程よく枯れた珈琲があったのはそれです。よろこびを倍加し、愛するように火を入れ、久し振りにたてて飲む珈琲に、
日本人は昔ながらでない、新しい精神を感じ生活力を築こうとしているのです。

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