珈琲の歴史と地誌


      アビシニヤから回教諸邦へ・・・・・・西欧への移入

 ・・・・珈琲樹の伝播・・・・・地誌的展望・・・・生育適地の地理的条件・・・・・地理的分布

1、発見の前後


1.  アビシニヤ

 人類の歴史の片陰に、それはその花の淡くかすかに、咲いたかと思うとちってしまうように
あるかないかもわからぬなりに生い育って来た珈琲。
 粗野な、というよりももっと原始なその生い立ちのことを思うと、それでいて滅びもせずに、
遂に人間の嗜好に投じて、今では世界の隅々にまでも行きわたって来たということは、取りも直さず珈琲の普遍的な本質によるものでなくて何でしょう。
 珈琲は少しも奢りもせず、また何等華麗な衣装も着ず、小難しい理屈をも持ちませんでした。
 極めて徐々に、明け行く空の下に物の見分けのつき初めて来るように、人々の間で食用に、そしてまた薬用に、煮たり、焼いたり、揚げたりして食べた未開の幾世紀を経て、その本質がやっと現れ出て、飲用にまで進化して行った過程には、何処か身に着かぬ衣を着せられたような取り扱い以外に、珈琲それ自身には特に取り立てていえるほど、目覚しいものは何もないのでした。
 いまでこそ珈琲は嗜好飲料の中で、遥かにボリュームの多い荷重で茶を凌駕しつつあります。
しかし茶はすでに遠く四、五世紀の頃には、東洋的な風格ある飲料として、揚子江の流域に愛用されており、八世紀の中葉には神秘的な余韻を湛えた茶道の基礎が、陸羽の茶経によって確立していたのに、そのころ珈琲はまだ藩地の奥に低迷して、その実は薬物としてすら発見されたか、されなかったかも知れない有様でした。

ナイルの三角州に絢爛を極めたエジプト文明が五千年の昔に開け、それから幾千年の間に、地中海の縁辺をめぐって、幾多の国々の興亡隆替がありましたが、巨大な陸地アフリカは、サハラの大砂漠の横たわる、リビヤからスダンの南は、解し難い未知の世界として、遥かに後世に至るまで、人智の外に置き忘れられていました。
 ただ僅かにパレスチナに続くスエズの地峡から、南東はるか二千余キロに及ぶ、アジヤとアフリカに挟まれた細長い紅海が、アデン湾に向かって注ぐ涙の瀬戸━パブエルマンデブ海峡を越えると、その左アラビヤの南端には、紀元前一千年の頃シュバの王国があって、ヘブライの王ソロモンに、世にも優れた才知と、妍を以って見えた女王が栄えていました。ソロモンの胤といわれるその子メネリック一世によって、対岸アフリカ大陸のアラビヤ海に向かって突出する、ソマリ半島に創建されたエチオピアだけが、そば区と森林の奥地山獄に存する、唯一の国として知られているに過ぎないのでした。
 あるいはアビシニヤといわれるその奥地の国は、容易に近づく事も出来ない、奇しき国とされていました。学名コヒア・アラビカ・Lと称せられている最も代表的な珈琲は、このアビシニヤを原産地とするのです。

推に往古アビシニヤといわれていた地域は、現在のエチオピヤだけではなく、エヂプトスダンからエリトレヤを含むソマリランドの南一方帯、いわゆるアフリカ台地の各地域にまで、何とない地域的領域におよんでいたのでありますまいか。ソマリランドから大陸の南端ケープタウンに至るアフリカの東部には、海に接近して一台山脈が南北に貫いていて、赤道下、一様に熱帯季節風の影響を受けて多量の雨を降らせ、その海抜の変化により、多種多様の草木を繁茂させる豊饒な風土を形成しているのです。そしてまたその大山脈の中には、北よりルドルフビクトリヤ、タンガイカ、ヌヤサを始めとして、大小幾多の湖水が、太陽に向かって延べられた水晶の連珠のように連なっていて、青ナイル、白ナイルの流れが、豊富な水を湛えてエヂプトに流れ下り、そこに豊かな沃野を形成するように、幾多の重要な河川の源流は皆ここから発しているのです。
  これらの山脈の、自ずからなす草原を縁取る潅木の群に交じって、四、五米から中には二十米にも及ぶ常緑の木があり、地を覆うように繁ったその枝々には、先の尖った長卵形の対立する堅い葉陰に、匂高い小さな五弁の白い花と、真赤な果実とが同時に花咲き実っていました。
  何時からとも知れない幾世紀にわたって、その名もない木は番地の奥に生え、猛獣の攻撃から逃れて、そのあたりに安息の棲を見出している弱小の動物たちが、時にその枝を登って、熟した赤い実を食ったりしていたかも知れません。発見以前の珈琲は恐らくそんな在り方であったものでしょう。
  そしてその実は矢張りいつとなく、土人の食物ともなっていたのでしょうが、それもその採果を口にする程のものとして、あまり重要なものではなく、ただ在るがままの姿で、やけつく炎暑の太陽の直射を受けながらも、どこか冷涼の感じられる、熱帯の高原の此処彼処に、自生しつづけられていたと思われるのです。

 メネリック一世は十六歳まで、父王ソロモンの許で教育されたといわれています。そうした文化の血を、エルサレムにうけて創建されたエチオピヤは、開国約三百年、紀元前七百十二年には、その王シャバコ一世は遂に下エジプトを手に入れて、エヂプト第二十五王朝をつくるに至っていたのですが、それから約七十年後、紀元前六百六十三年には、アッシリヤとの数次の戦いに疲弊して、敗退せざるを得なくなってしまったのでした。それから後エチオピヤは世界歴史の表面で殆ど主役を演じたこともなく、アビシニヤの山中に潜んで、僅かに天然の恵みに浴しながら、国家を維持して来たに過ぎないのでしたが、アラビヤの南部から移住してくるアラビヤ人や、エジプトを通じて来るギリシヤや基督教の文化を伝えて、紀元四世紀から七世紀にかけては、せむ、ギリシヤ混交文化が繁栄したのでした。それもしかし、どこまでエチオピヤの志操を高めたことでしょうか。
 アビシニヤの高原に住むアラビヤの羊飼いが、名も知れぬ潅木の実を食べて、しきりに興奮する羊達がいるのを見て不思議に思い、僧院に行って回教の布教者にそれを話した。僧侶は牧者に伴われて牧場に行き仔細に見ると如何にも尋常ではないので、自分でもそれを食って見たところ、得もいわれぬ爽快な反応があるのに驚き、一層それを確かめて、睡魔を払い、沈鬱を回生する秘法として用い始めた、という珈琲発見の伝説は、発見に至る長い過程に人格化がおこなわれたとして見れば、あながち出鱈目な造り話ではありません。アビシニヤにありながら、珈琲がエチオピヤ人にではなく、アラビヤ人によって発見されたということは、その後の事実から見てもその通りなのですが、これこそこの二つの国人の性情の差を物語るものであって、珈琲はアビシニヤに生い立ちながらも、それはただ生育に適する風土だけが、放置された野生のままにあったその木を保ち続けてきたに過ぎず、その英質は探究心の強いアラビヤの叡智によって、見出される機会を得たことを知らせているのであります。
 珈琲発見史の順序からは大凡紀元八百年頃のこととされているのですが、それは恰もサラセンの大移動によって、アラビヤ人が打ち建てたアッパス王朝の最盛期で、ハルン・アル・ラシッド━あのアラビヤンナイトの王様が、バグダッドに都しており、彼の限りない学問の未知の世界の探求は、王宮に擁する八百人の学者をして、近代科学にも大きな貢献をなした地理学上の発見や、物理化学の功績を積み上げている頃のことでした。四囲の圧迫の中から決起したアラビヤ人は、一時コーランと剣をかざして、世界に雄飛したのでありますが、砂漠を故郷とする彼等は、また困苦の中に意志ある生活を見出す術をも知っていました。まだ民族の若さを失わぬ世代にあって、アビシニヤに移住したアラビヤ人には、珈琲がただ単に食うに足る貧しいものとしてではなく、どこか価値あるものとして、感受されたに違いありません。しかし遅遅とした珈琲の眼覚めは、容易にその精気を発散させることなく、まだ夜明の夢のように、熟した果汁からか、、あるいはその果実そのものからか、一種の香気ある酒が醸され始めた位でした。略九百年頃、アラビヤの医師ラーゼスによって、バンチャムという名称で紹介されたといわれる珈琲飲料は、恐らくこの珈琲酒の事だと思われます。往古アラビヤでは珈琲の実は、その樹と共にパンといい、それから作った飲料をバンチャムといったのでした。
 況に今日のコーヒーという語は、元来アラビヤ人の間で、酒の名称の一つとして用いられていたということは、、最初珈琲飲料が酒として現れたことに淵源しているとも思われるのです。そしてその語は、アラビヤ語のQAHWAHから変化したものだという一説は最も正しい語源説だと思われますが、珈琲が飲料として西欧へ伝来したその頃から幾度か綴りを変えて遂に仏語、葡語ではCAFE英語ではCOFFEE 独語ではKAFFEE 蘭語では KOFFIEと書かれるようになっているのです

 こうした探索にふけってくると、何時から土人の食物になっていたかも知れぬという前掲の不確かな考え方は、むしろ「アビシニヤに移住したアラビヤ人--それは主として牧畜や回教の布教を目的としていた--によって食物とせられ」と訂正しなくてはならないかもしれません。しかし何もそう強いて改まっていい立てる必要もありますまい。何となれば、自然見はなんら言い表さず示すその行為の中に、案外予期せぬ直感のひらめきを見せたりするものですから。彼等が無言の中に造り来った一つの風習に、やがて文明人がこれはと驚き認めるものがあったとしても、不思議ではありません。語らぬアビシニヤ人にではなく、語るアラビヤ人よって残されたそうした記述が、自分自らを高めて描かれたと、またいえばいわれぬこともないのですから。
 ただ一つ珈琲発見の痕跡が、アビシニヤ人のために残されていたと思えることは、オランダ人イエ・ハーヘンの珈琲に関した著述の中に、「林野が焼払われた時、水に浸った木から珈琲が発見されたという話がある。これはしかし信用し難いことであって、かつて誰もその事実を明らかにし得た者はない。」と語られている事であります。これは焼かれた木の中には、無論珈琲の木があったからこそ、この言い伝えがあるのであって、そこには必ず異色ある香気も立ったであろうし、またその水が最も適当な状態であったとしたら、その浸された水がただごとでない結果を現したことも、あながち想像できない事ではないでしょう。
 ハーヘンの著述の中にはすぐそのことに引き続いて、「プロスペル・アルビンという医者が、千五百九十一年エジブトのベネチヤ大使館に行っていて、珈琲の木ついて、種々と試験をし、その種子のことについて記述したが、彼はやがて薬としてそれを持ち帰った。」と記されてあります。それがアルビンであったか、あるいはまた他の商人であったかは別としても、そうした動機からエジプトへ行っていた確かに、偶然エチオピヤの田舎から出てきていた者が会い、珈琲のことを珍しげに探求しているのを見て、
 「私の国の方ではもうせんからその実は焼いて煎じております。何でも原っぱの木を焼いた時、水に浸ったその焼けた木からそれがわかったのだそうで、それから段々百姓もその実を採って焼いて煎じるようになっております。アラビヤの風もその見真似ではないでしょうか。それが薬になるのもかね。結構眼覚ましには利きますが。」
 とでもいったようなことを、もった不器用に口重に話したかも知れません。こんな想像も少しも無かったとは思われないことです。その頃は珈琲は飲物としてよりも、薬用としての方がまで重要視されていたので、せっかく貴重な言葉も聴きもらされたところがあったのではありますまいか。そして若しそれが事実当ったことであったら、珈琲は二つの道から飲物への完成を辿ったことになるのですが、この挿話はあまりにも薄弱で、アラビヤの回教寺院内に数世紀に亘って 秘薬として保存されていたことの方が、歴然として大きく描かれているのです。
 再度アラビヤの伝説に戻って、これは前のものと全く同巧異曲なのですが、千二百五十八年という年代も挙げ、シェーク・オーマーというモカの回教僧が、アラビヤのオウサバに流されていたが、鬼界ヶ島の俊寛会都のように飢饉に彷徨している時、木立の中の潅木の実を見出し、毒かも知れぬ、しかしたとえ毒で死んだとしても、とも角も食いたいという一心で採って食った。ところが毒どころではなく、満腹はするし、その上に得もいわれぬ爽快さに、衰えた気力は忽ち回復した、やがてオーマーは宥されてモカに帰るや、秘薬発見の功績やその他の徳望によって、聖者として崇敬された、というのであります。この二つの話は故意に混同されて、時は明確にしないで、場所はアビシニヤとされ、ただ人物だけがシェーク・オーマーとして挙げられているのもあります。
 これは前のものよりも一層こじつけた説話なのですが、一二〇〇年頃ともなると、珈琲酒の風習はいつか廃れ、乾燥した豆を沸して、覚醒及び身心の元気快復その他の薬用として用いられ始められ、、急テンポに、乾燥豆はそのまま焙煎する方法から、一三〇〇年頃ともなると、脱皮したものを焙煎し、次いでこれを粉砕して、煎用する方法になってゆきました。そうした用法は専ら回教僧院の中で変遷し、僧侶の修行や、信徒の勤行に際して睡魔を払う神秘的な聖薬として、、聖壇で分かち与えられていたのでした。
 そうした時期とたまたま一致する、シェーク・オーマーの珈琲伝説は、年代や人名や、場所が正確に記されているだけに、珈琲発展史から見ると却って多くの矛盾が出てくるので、これによれば、珈琲がアビシニヤで発見されたと、一応誰からも信ぜられていることは、否定されなければならなくなるのです。
 だがなにもそんなに詮議立てずに素直に受け取れば、その頃回教との間で---ということは、既に砂漠を出て、ペルシャにも、トルコにも、エジプトにも信仰を広めて行った回教の帰依者の間で、如何に珈琲が重く見られていたかと言うことがよく諒解できるのです。
 珈琲それ自身からすれば、たとえ発見の恩義があったとしても、それは実に不遇な期間であったとも思われる長い間、幾世紀にわたって、回教僧院のなかにかくされていたのです。抗し難い睡魔を鮮やかに払い、鬱気を晴らす精妙な特効は、こうした説話によって一層権威づける必要があったか、また自然に説話を生んだか、と思われもするのです。
 一三〇〇年頃回教僧侶達の間では、珈琲をのむことはもう普通のことになっていて、黒く炮った豆は乳棒乳鉢で砕き、その粉は煮て糟と共に飲んでいました。この非常に原始的な飲み方は、今日でもトルココーヒーとして残っているのですが、もうその頃ともなると、珈琲は単に僧侶のなかばかりでなく、民衆の間にも排け場をもとめていたのであります。そしてこのことは、やがて珈琲の大流行時代を現出する初期の徴候だったのでありますが、やがてそのことは特定の者による、珈琲の仮托された権威の失われることともなり、今まで保護されていた回教僧院---それは施政者でもありました---から極めて厳しい弾圧を受ける皮肉な結果をも招いたのでした。
 珈琲が公然と一般に飲用を許されたのは、十五世紀中葉からで、その愛着は忽ちメッカ、メジナから、回教圏内に広く広がったのですが、西欧諸国による印度航路発見の競争時代に先立ち、十六世紀に入ると、既にアラビヤ人の足跡に従って、回教と共に珈琲は南方印度にまで伝播し繁殖し始めていたのです。


2.回教の諸邦

 まだ幼い生い立ちの中から、アビシニヤでアラビヤの回教僧に発見され、そのまま寺院の奥深く秘蔵されてきた幾世紀の間、珈琲は人間に直接触れる機会がなく、ある意味では実に無為に世間も見ずに過ごしてきたのですが、法衣を脱ぎ、厳格な掟の扉を開き、忍苦の内陣を出て、回教僧院の表に始めて立ったとき、荒々しいほどの歓呼の声が、まだ何も弁えぬ珈琲を待ち向かえ迎えたのでした。
 鄭重であった中にも、どこか冷たさの感じられた今迄とは凡そ全く違った雰囲気が、そこにありました。貴重な丹塗の器はなく、珈琲は木製の器物に劣らぬほどの粗野な手にいきなり握られもしました。しかしそれは不思議に温かく、いままで恭々しくされた時よりも、却って一層ありがたがられているころは、自由な、奔放な高笑いの声に一切実にこもっているようでした。
 ひそひそとした囁きや、沈んだき勤行の声の代わりに、器物のかち合う音や、動揺の多い空気の中で語られる庶民の人生に、珈琲はそれでも珍客のように、遠慮のない賛辞を浴びてもてはやされ、容れられたのでした。
 千四百五十四年珈琲はアデンの回教僧官によって、庶民の使用が許可されたのですが、熱砂の低みに泌み出る水を求めて、隊商や羊飼達が集まるオアシスのように、飲酒すら不道徳として禁じられていたイスラムの教の民は、とかく単調になりがちな精神の潤いを、自由に飲める珈琲に求めたのでした。アデンからメッカ、メジナはもとより、砂漠の奥深くシリヤからトルコにも、そしてエジプトにも、またユウフラテス河を渡って遠くペルシャにも、珈琲は逸早く広がって行ったのでした。

  もう飲物への転期を経ていた珈琲は、しかし単独の飲物としての発達を、アラビヤよりもむしろペルシャでなしつつあったもののようです。いつからともなく珈琲愛飲の風習は、又返す波のようにトルコ、アラビヤへと戻ってきたときには、寺院をめぐる広場や、街路の樹陰に屋台を張った路上の珈琲店といったようなものすら現出していたのです。
 縁陰の涼しさに、直射の太陽を避けて集まるアラビヤ人達は、その閑暇にもてあました時を、珈琲のために惜しみなくわけたのでした。吹き冷まさねばならぬほど熱く、粉末を滞らせた黒い苦汁は、刺激の多い香と共に舌から胃に流れ入ると、頭脳は洗われたように爽快さを呼び戻して、心身に元気が横溢してくるのでした。暑い炎天の下では、何にもかえ難い憩いを彼らに与えるものでした。
  
  このことは回教僧院にとっては、実に意外な出来事でありました。こうして漸く世に現れてきたことではあったのですが、、珈琲が世の中でいかに称賛されようとも、それはもともと彼らによって発見され、愛護されてきた価値あるものと思ったのです。(実はその真価は彼らによって穿き違えられていたところがあるか、あるいは見究められていなかったところもあるらしく思われます。)僧院の中にあってこそ、それは勤行の扶けであり、アラーの賛美者、奉仕者であったと思われ、尊重されていたのですが、世の中に出たのをみると、そんな素振りはどこにもなく、まるで真反対な安逸や、不信仰の友らしい役割にさえ実に居心地よく着いているとも思われるところがありました。
 回教徒にとっては、すくなくとも欲情に身を委ねることは、アラーへの不信として厳禁されているのです。いつの時代にもある狂信者や、理窟家や、珈琲のあまりにも目覚しい大流行の現象を、快しとしない者らによって、反珈琲の強硬な意見や運動が騒然と起こってくると、回教の支配者は、今は却ってその信仰の邪魔ともなった珈琲を、放対遂しにかかったのでした。
珈琲が一般に飲用を許可されてから、僅か半世紀の後、1511年メッカの僧官カイエル・ベック大僧正は、珈琲反対派の意見を聴き、珈琲を酒と断じ、一挙に僧侶及び一般の使用を厳禁し、違反者には重い刑罰を以って臨んだのです。
 この禁令は一時カイロでもこれに倣つたりしたのですが、カイロでは学者等から珈琲が酒でないことが証明され、すぐ解禁されました。メッカの禁令もそうした結果根拠が失われて、また珈琲は民衆の手に戻ってゆきました。一時隠れた縁陰のコーヒー店は、また到る所に現れ、人々がその周囲に集まって行きました。
 しかし珈琲が最初単に宗教的な意味からにしろ、愛護されていたアラビヤの回教僧院から受けた圧迫は、その後珈琲が他のいずれの国に伝わってから起こった受難よりも、期間もずっと長く、その度合いも深刻でした。無論放恣や怠惰な風習が、多数の人々の集う慰安や休息の場所からは派生的に起こりがちであって、それが始めは派生的であっても、いつか主たる目的がその方にすり代わって来ると、そこからは節度も失われて行ったりし始めるものです。節度と自由との限界点で、それが宗教的、道徳的だったり、政治的だったり、また経済的だったりする観点から何によらず起こる相刻、人間が持つその矛盾に、珈琲がその時始めて逢着したのでした。
 人間同志が責めたり、反抗したりする主題に珈琲が上がると、それはさしも熱烈なアラビヤ人の宗教をすら、脅かすかと思われる暗鬼ともなったのでした。1524年にはメッカで再度珈琲店が禁止されたり、メジナでは殆ど禁止的な重税が課せられたりした揚句、1534年にはカイロの繁栄した珈琲店は、遂に回教の狂信者や暴徒による襲撃破壊を受け、市中は珈琲党と反珈琲党に分かれて争闘したのでした。この争闘は時の判官が学者や医師や僧侶を集め、一同に珈琲を配るとともに、自分でもそれを飲んで見せ、反対派を納得させて鎮定したといわれ



 そうした中にも1530年頃には、ダマスクスやアレッポ等シリヤの諸都市にも、路上から発展した珈琲店が現れるようになっていましたが、1552年ダマスクスのシエムシとアレッポのヘケムとがそれぞれコンスタンチノーブルに開いた新しい着眼の珈琲店は、常時スレイマン二世(1520年〜1566年)の治世下にあるトルコ人の中に鬱勃と起こりつつあった文化の進運に投じて、後世の珈琲店にそのまま移行する社交場としての備わった店舗を生んだのでした。
 トルコ人達はその新しい珈琲店をkawha-Kanes(カハ カーネス)と呼び、街頭に進出したサロンに寄り集まって、歓談し、清遊したのです。時は恰もトルコ史上最盛期にあたっていて、スレーマン二世はフランスと結んでドイツに抗し、ハンガリーを略し、またアフリカの北岸を占めて、地中海に覇を唱えているときでもありました。
 珈琲それ自身にとっては、それが悦びであった、あ、悲しみであったか、その路上の珈琲店が
民衆-----それは新鮮な感覚を持った本来自由な市民の意です----のものとして、素朴な要求を満たし清新な刺激を求める歌としてあったものとはまったく異なった絢爛と歓楽の付加に、カハ・カーネスが段々と彩色されて行ったことは、何処かに根底のない、真異の確かでない、文化が反映していたとも思われるのです。それは
スレーマン二世の没後、トルコが急速に衰頽して行った一時の栄華を象徴するかのように。それはまた、珈琲が人生とあざなわれて歩む、その必然の道の命題でもあるかのように。
 「トルコのインテリゲンサァが夢想していた魂の慰安所としてこのカフェが繁栄を極めたのも、時代の要求に乗じたからなのである。この珈琲喫飲舗(カハ・カーネス)のことをトルコ人の間には『学校の学校』という異称があったと、フランス人クーバー・ドルネーの著書ではフランス語に訳して『エコール・ドサボン』といっている。」と喜多壮一郎氏はその著「カフェ・コーヒー・タバコ」で紹介しています。
 いずれにしてもそんなふうにして、珈琲はトルコ人の生活の中に、深く採り入れられて行ったのでした。カハ・カーネスの流行の中から見出されるさまざまな変形にも拘わらず、珈琲の真の魅力は真に自由な民衆と共に歩み、その本来の精神の高みに奏でる、詩としての価値は、フランス人によって、愛してやまぬキャッフェを「エコール・ド・サボン」と讃えられ、またイギリス人によっては、一ペニーで最高の知識が得られる場所という意味から、コーヒーハウスを「ペニー・ユニバーシティー」と愛称されたように、トルコの知識人にもカハ・カーネスは、その知識の交換所であり、初々しい情操の触れ合う場所であり、そうした意味での新鮮な社交場として、「学校の学校」という賛辞が与えられ、そこに換えがたく、ふさわしく登場して、分かち飲むことが出来る珈琲に寄せた愛着は、何物にも勝る、よき物への断ちがたい思慕だったのです。常時トルコでは結婚の条件として、妻に珈琲を不自由させないことが誓われたというのは、余りにも誇張された、愛好の仕方だと思われます。
  その後1570年にも、1580年にも、まだアラビヤの圏内では禁圧が繰り返されコンサンチノーブルにおいてさえ、1656年になって、また珈琲店閉鎖の嵐がありましたが、施政者は民心の抗し難いのを知って、却ってすぐに、自由な珈琲使用を許さなければならなくなりました。

 もうその頃ヨーロッパは、中世の暗い時代から明け離れていました。その夜明けの夢をそそったものの一つとして、東洋の珍妙な物産がありましたが、印度への道は回教を奉ずる国々に占められて、安易な通過を許さないのでした。十字軍の長期の遠征━1096年から1272年に及ぶ━があってからも、エルサレムはなお依然として、カリフの有でありました。
そして、そこには間もなく大西洋に見かえられる運命にあったとはいえ、地中海は何時か繁盛な貿易や交通の中心となっていました。
  古代から幾度となく領主を変えながらも、それ故に一層ロマンの地であった地中海の奥にある海に面した断崖から、その高原の微砂に包まれてすでに7,8世紀を生い立って来ていた珈琲が、新しい自由な天地を望み見ていたのでした。それはまたトルコやエジプトに通う、進取的な西欧人たちの眼に、その陶器の碗に盛られた黒く熱い液体が、異様に写り始めていたことでもありました。
 何か知れない木の実から造られる、その異教徒の飲む、奇異な香気を持つものは、すぐには容易に理解されないかに見えました。しかしそれは不思議に人の心をそそる、見過ごし難い何物かがひそんでいることは、その恵敏な碧眼に、すぐ観収されました。悔いることも軽蔑することも出来ないその奇異なものの天稟は、じつと見詰められていたのでした。そして、非常に早く、また自然に、珈琲は、その長く求めていた配偶に引き合わされたように、西欧の白い碗に抱かれて行ったのでした。

次二、近世の目覚め



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