二、 近世の眼覚め


1.西欧への移入


 嘗て地中海の南北を占めた、サラセン帝国のカリフ三派の一つとして、まだイベリヤ半島の南部に残存していたグラナダの国王が、攻防十年、遂に屈して、白馬に誇るカスチラの女王イサベラの前に降伏したのは、1492年1月2日のことでした。それはセラセン大移動の最後の退潮であると同時に、一変した新しい世代が、アンダルシヤの平原に呱々の声を挙げたことでもありました。曲折の多いヨーロッパの半島や、海岸や、島々や、その陸地に鬱屈していたヨーロッパ人は、イサベラ女王によって振り鳴らされた警鐘に耳を傾けてたのです。
 その同じ年、ですから1492年8月、バロスの港から大西洋を西に向かって船出したコロンブスは、10月11日にはサンサルバドルに、11月にはキューバ、ハイチに達していたのですが、新大陸が忽然とヨーロッパの前に出現し、その意欲を駆り立てた、これが最初の年だったのです。それは芸術方面でもすでに文芸復興が成し遂げられつつあったヨーロッパの人類自覚の発現が、激しく自然そのものにも注がれたことだといわれないでしょうか。珈琲にとってもそれはやがて延び行く素地が、そこに用意されていたのでした。
  こうした世界情勢から、地中海が古代から占めていた権勢は、漸く大西洋に置き換えられつつありましたが、イタリヤの諸都市はなお東方との貿易の最短の位置にいて、殷賑を極めていました。東洋の物産を満載したハンサ同盟━1563年にはその商業特権が制限され、次いで廃止されましたが━の豪華な船が立ち寄るゼノアやベネチアの港ベニスがそこにありました。軽敏なゴンドラを操る水都のベネチヤ人は、何の疑念もなく珈琲を受け入れた最初のヨーロッパ人でした。
 だが文献による珈琲の西欧への紹介は、ドイツ人の医師レオナルド・ラウオルフによってなされたものでした。。イエ・ハーヘン(L.Hagen)というオランダの珈琲記述著によれば、「ドイツ人医師レオナルド・ラウオルフ(Leonard Rawwolf)は、1573年アレッポ━シリアの北部にあります━において珈琲の知識を得、1582年初めて珈琲に関する記述を発表した」とあり、また
「それに引き続いてプロスペル・アルピン(prosper Alpin)が、エジプトのベネチア大使館において、珈琲の木の研究を行った結果、1591年珈琲の実を薬として持ち帰った。珈琲が薬として輸入されたのは、その後17世紀の半ば英人エドワードがロンドンにおいて、その召使ギリシヤ人パスクワ・ロッセ(Pasqua Rosce)に開かせたコーヒーハウスにより、一般に飲みものとして知られるに至るまで、引き続いて行われた。」と述べられているのです。そ頃はまだコーヒーという名称は用いられておらず、「チャウペ」とか「チャオウア」と呼ばれていたという事です。
 飲物としてよりも、むしろ薬と見做されていたこの半世紀は、ヨーロッパにおける珈琲の模索時代とも、探訪時代とも思われます。その頃トルコ方面に赴いた旅行者は、数多くの珈琲に関した通信を故郷に寄せています。それらは、しかし最早薬としてよりも、一層珈琲の飲物としての本質に注意していて、その名称も段々と今日の語に近づいて来ています。常時のヨーロッパ人の通信によれば、トルコ人がコファという飲物を用いていること、それは小さな陶器に入れ、出来るだけ熱くして飲むこと。
またコファは同名の木の実から採られ、煤煙の如き香気を持っていて、飲めば精神を楽しませ、消化を助長するというような印象でこのことが語られています。
 西欧へは矢張りベニスに一番早く、1615年には入っています。そして全欧州へ展開して行く前触れのように、1616年にはオランダに伝わりました。異教徒の飲物を用いて神の畏れはないかという議論がイタリヤで沸騰した時、法王クレメント8世は試飲をして見て、その芳醇な佳味に驚嘆し、蒙味な風説を揶揄して、「これ程の美味なものが邪教徒の飲物というなら、これに洗礼を施してキリスト教徒の飲物とし、悪魔に一泡吹かせてやろう。」といったと伝えられています。アムステルダムとベニスは、ヨーロッパにおける珈琲初期の試飲地の観を呈していたともいえます。
 しかし本格的な西欧移行は、イエ・ハーヘンの記述にもあるように、イギリス人エドワードによってなされたもので、彼はコンスタンチノーブルからその風習をロンドンに齎し、1652年その召使のパスクワ・ロッセに珈琲店を開業させ、後年ロンドンを風靡したコーヒーハウスの始祖となりました。
 なおその同じ年には、ヘンリー・ブロンド卿の「苦味ある珈琲なるものが、二三時間もかかって談笑のうちに喫せられる云々」という、トルコ来信記によって、初めてコーヒーという今日の語とトルコの珈琲喫飲の雰囲気が伝えられています。それもこれもあって、珈琲の認識は急速にロンドン人士の間に広まり、一度これを飲むと離れ難い親しみ深さと共に、その愛飲家同志の間に大きな親和力を喚起させることが感得されました。
 無論その価格はまだ非常に高く、殆ど同時といってよい、1610年から1650年の間に、オランダ東印度会社によって、ヨーロッパの各地に伝来された支那産のティーにも比肩するものでありましたが、既に飲料として確立していた茶の、瞑想的で静穏な気風に引換えて、珈琲のまだ完成されないながらも、遥かに自覚的で豊富な積極性は、貴族や金持ちの客室よりも、もっと一般的な嗜好に迎えられて、万人からこの上なく愛される性格を帯びていたのでありました。

 ヨーロッパはその頃思想的にも大きな転機に際会していました。王権の専制に抗する民意の伸張ろ、正義の覚醒は、宗教的には、1517年ルーテルの宗教改革を呼び起こすことになったのです。
 進展する人間性の発露が醸す反復や流転にも拘わらず、波瀾の中に漕ぎ入れて行ったヨーロッパの意気込みは、凄まじい中にも真底に自由を貫いていたからこそ、世界はやがてその手中に帰したことがうなずけるのです。それは遠き眼で見れば、何時の間にか人間がつくり上げ、そしてその巨大な拘束の中に、徐々に窒息し、動脈を硬化して行くがかりになっていた中から、立ち直って雄震いをした巨人だったのです。
 最早一国の事でもなければ、一地域の一時的な変遷ではなく、じんるいとその自然としての世界の転換として見ない限り、近世以後の意義を了解することは到底困難でしょう。言葉を変えていうならば、自然発生的な人類の発展史として見ない限り、それは単に権威と支配の争奪にしか過ぎなくなるのです。
 時世の大きな激変期に珈琲と茶とは時を同じくして、華美にかくれた擾乱の港に、人生の潤いとなって流れ込んで行ったのでした。特に珈琲についていうならば、アフリカで生い立ち、アラビヤを経て、オスマントルコの盛時を後にして、ヨーロッパのそうした時に、己を見出していたのでありました。珈琲が正式に最初に迎え入れられたロンドンでは、あたかも一時王政が失われて、クロンウェルの一層厳しい治下にある時代でした。潔癖なその清浄主義は、必ずし珈琲を歓迎しなかったのですが、、珈琲そのものの品格は否定されることなく、やがてアン王女時代の文運の盛時
 に引き合わされてゆきました。
 エリザベス女王朝と呼応しながら、旬乱を極めた英文学の興隆時代は、華々しく珈琲店派文学が起った程、珈琲は文学者や知識人達によって愛されてゆきました。それは勢いコーヒーハウスが愛されていたということにもなるのですが、やがて珈琲そのものよりも、珈琲店の従属的な内容が、享楽的に、また頽廃的に変わっていくにつれて、珈琲はそこでの飲物としての地位を茶に譲ってパリに移って行くようになりました。
 しかし新聞の濫觴やローヤルアカデミーや後日のイギリス大海運を擁して発展した海上船舶保険事業などが、その成立の機縁をコーヒーハウスにおける談笑の間に負っていたということは、実に意味深いものがあるではありませんか。
 18世紀初葉のロンドンの、コーヒーハウスは最盛時代には、その数2千に及んでいたといわれています。

 1644年に始まる珈琲のフランス渡来は、1671年にはマルセーユに、1672年にはパリに、それぞれ珈琲店を生んでいましたが、イタリヤ人フラコイス・プロコープによって1689年コメディ・フランセの劇場近くに開かれたキャフェ・プロコープは、パリの最もパリらしさを誇るキャフェの発端となったものでした。
 常時パリはルイ14世の盛時にあって、ヨーロッパ文化の中心をなしていました。ロココ風の華麗な風俗に包まれ、豪奢な宮殿やサロンに、王朝の典雅と奢侈を誇った宮廷や貴族の生活と、まったく逆の対比にある貧民の窮乏とは、やがて来らんとする大革命を蔵していたとはいえ、
如何にも生活を楽しんだパリ人の自由さは、珈琲を向かえて宛も会てアラビヤにあった路傍の珈琲店にも似た、路面に向かって開いたキャフェの形式を案出したのでした。それは分け隔てなく誰しもを受け入れる安楽な場所でありました。
 如何にパリ人が珈琲を愛したか、そしてそれは今もなお同じ情熱を以って愛し続けられているのでありますが、パリ人は珈琲の本質を見抜いて、すぐ己の生活の真情の中に採りいれ、己の感情を託するよすがとしたのです。
 パリのキャフェは忽ち人気を呼んで、真に民衆の安息所となって行きました。またボルテールやビヨンやルソオを始めとした芸術家も思想家も相集まって、日毎夜毎休養の間に、議論や自由な意見が交わされる場所となり、強烈な酒と熱い珈琲とは手を組んで彼らを鼓舞し、激励する介添えとなったのでした。フランスがなしたすげての革新的がことも、またここの語らいの中から生じました。そして彼等はフランスの苦悩を切り開いた大革命を成し遂げ、ナポレオン時代の峻しい変動に耐えて、珈琲を民衆の間に維持し、友としつづけて来たのでした。
 1615年ベニスに初まる西欧への珈琲移入は、その後1781年ドイツのフレデリック二世による、珈琲容認に至るまで、166年の間にヨーロッパ全土に広がり、1776年の独立宣言により新世界に誕生したアメリカ合衆国にまで行き亙っていたのです。
 ロシヤには何時の頃から入って行ったかということは、その頃たまたま日本人によって見聞された事実から見た方が却って当時のヨーロッパの珈琲習俗を察知するに便利です。
 1804年(文化4年)幕府の蘭学者で医官であった、玄澤大槻茂質の著した「環海異聞」は1793年(寛政5年)━あたかもフランス革命によりルイ16世が死刑された年でもあります━15人の仙台の舟子が、極北の僻島オソレテーツケに漂着、それより露都に連行され、12年後ロシヤの修交使と共に連れ帰された間の見聞書を書いたでありますが、珈琲のことは彼等が8年間滞在し、親切な保護の下に生活していたエルクーツケ(イルクーツク)の習俗の部に出てくるのです。
1.「コーヒィ」というものあり。木の実のよし。鶯豆のごときものなり。ムスクワの都の方よりここに来る。俵入にしてあり。市店にて売物とす。黒く炒り、細末にして、布袋に入れその袋を器に受け、袋の口より熱湯を注ぎ、その出し湯に牛乳をさして飲む。また鶏卵、砂糖を入れ、拌廻すしても飲むなり。如此にして朝夕にこれを飲み、振まひの時、客にも出す。
しかし常々には妄りにのまず。按に和蘭「コーヒーボーン」という。別に譯説あり。
 これから見ると、その頃既にシベリヤのバイカル湖畔にまで、珈琲が常用されていたことがよく分かるのですが、珈琲のたて方やその飲み方等、150年を経た今日と全く異なる所がないのです。
 原料としての珈琲は、その頃まだ殆どアビシニヤ産だけに限られていました。しかし大西洋の彼方に開拓された新世界は、珈琲に取っても矢張り生育するに最も適した大きな転地を設けて待っていたのでした。そして17世紀の末から、19世紀の末までの二百年間に、もともとアビシニヤを出た珈琲樹は、改めて西欧の先駆者達に導かれて、その行く先々の風土に順応した、実にさまざまな変化に富んだ品質の珈琲を生むこととなっていたのです。

次  三、珈琲樹の伝播


トップ